1968年のバイク世界一周(15) 大迫嘉昭 2020年7月16日(木) 9:54 |
サンタモニカ・ビーチ
1960年代,米国の大学で学んだ理由は、まだ日本ではなじみのない分野だったからだ。企業が新製品を販売する場合、商品の価格、販売戦略を理論的に立てるのを目的とする「Business Management」という学問であった。やみくもに足と顔で稼ぐのが、主流だった日本式経営は時代遅れで、帰国して就職すればこの学問は必ず役立つと思い、その大学へ行くことにした。だが、アメリカで就職に失敗した私は、帰国して航空会社に就職することにした。そのためには、世界の観光地をできるだけ多く観て回り、その知識と経験を使い就職に役立てようと決めた。最初は、四年間使っていた小型のフォード車を使えば,寝袋や料理道具など旅に必要なものを積め、車内で寝れば宿泊代も必要ないと簡単に考えていた。それまでコツコツ溜めていた分と、一年必死に働きためた分を合わせ何とか3,000ドルほどが手元にあった。仕事を辞め、することは旅の準備だけになった。だが旅の準備といっても何をどうするか、参考にするにもバイク旅行に関する情報も皆無の時代だった。することといえば旅費の見積もり計算ばかりだった。旅費については「Europa on $ 5 a day(ヨーロッパ一日5ドル旅行)」などを書店で買い、それを参考に計算したりした。安アパートに引っ越すとき、隣室のヤマハの駐在員に挨拶に行き、旅の話をするとバイクで行くべきだと勧められた。私はバイクに乗った経験もなかったが、旅費を削減できるならとバイクで行くことにした。車は、たまたま私のアパートに転がり込んできた神戸の若者とペンタックスのカメラと交換した。どうして私の住所を知ったのか、神戸の若者が時々私のアパートに転がり込んできた。私は稼ぐのに必死で、世話はできなかったが、数日して仕事から帰ると、いづらくなったのか、姿は見えなくなった。1967年12月、日本では250CCであるが、アメリカ向け、輸出用305CCのバイクを買った。東部は雪が降るので、春を待ち、1978年5月出発と決めた。学校と仕事を辞め、身の回りのものを整理し、今まで住んでいたアパートを引き払うと、すべてが新鮮で刑務所から出てきた囚人のような気分であった。私は初めてアメリカに来ている実感を味わった。もてあますほどの時間ができた私は、安物の釣り竿を買い、この四年間楽しみのなかった私は、時間を取り戻すようにほぼ毎日、サンタモニカやマリブへバイクで釣りに出かけた。サンタモニカ・ビーチは今と違い平日は人もまばらで、静かだった。当時は海岸から竿でタイに似たポーチという適当に大きな魚が面白いように釣れた。ある日いつものように釣りをしていると、ジョン・レノンと結婚したヨーコ・オノ似の日本女性に「釣れますか?」と声をかけられた。彼女はカリフォルニア大学の留学生で、サンタモニカ・ビーチ近くのアパートに住み、毎日ビーチを散歩していると言った。彼女は知的だったが、ヨーコとは違い朗らかな女性だった。それから釣りに行くとよく会い、いつもたわいない会話をしながら釣りをした。時たま彼女に会えないと、もう二度と逢えないのではないかとがっかりもしたが、それは無駄な心配だった。親しくなると、竿をたれながら、お互い個人的な話をするようになった。彼女は東京出身で、父親は小さな会社を経営しおり、彼女の主人は慶応大で、有名な出版社に勤めていると言った。彼女は私より2,3歳年上であった。主人には知性を感じられず、口ばっかりで実行力がない主人に失望し、離婚したくても主人が反対しているようで、主人から逃げるため留学していると言った。一年を通じほとんど晴れのロサンゼルスに雨が降った。ロサンゼルスの街全体を覆っていたスモッグは北の山岳地帯へ押し流され、周りの山々が驚くほどくっきりと浮かび上がり、この街の名のごとく「天使の街」になった1968年5月19日、「ヨーコ」とサンタモニカ・ビーチの望めるレストランで朝食を摂りながら、私が無事帰国したら、彼女が馴染みにしている東京銀座のレストランで旅の話を聞かせあげると約束して、ニューヨークをへ向かってルート66を走りだした。 |
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