1968年のバイク世界一周(6) 大迫嘉昭 2020年6月16日(火) 8:54 |
ロサンゼルス・ガーディナーのヘルパー
ドリス・デイ、ローハイド
すでに中部カリフォルニア、デラノのサムの葡萄畑で二週間働いたが、食事代や税金を引かれると四十ドル前後しか残らなかった。このまま葡萄畑で働いていても九月から始まる英語学校へは入れない。ロサンゼルスのホテルのオーナーが金になると言っていたガーディナーのヘルパーのことを思いだし、新聞広告を見て、すぐそのボーディングに電話をした。ボーディング、つまり「ボーディング・ハウス」とは日本語でいう「下宿屋」ことである。一ヵ月ボーディングは三食付き六十五ドル。ロサンゼルスまでのバス代を払うと、手元にはほとんど残らなかった。その下宿屋はロサンゼルスの中心、ベニス大通りとウエスタン大通りの交差点近くにあった。当時、ロサンゼルスは平屋がほとんどであったが、この下宿屋はかって白人の豪邸で、二階建てで大きく部屋も多く、ここに下宿すればガーディナーのヘルパーの仕事を世話してもらえるので、発展途上国、日本からの若者が常に60人ほど下宿しており、賑やかで大学や会社の寮のようであった。ガーディナーはロサンゼルスの日系人の生業であった。毎朝、下宿人が食堂で待っていると、小型トラックに作業道具を積んだガーディナーが次から次へと来て、下宿人をヘルパーに雇って仕事場へ出かけていた。私はヘルパーの経験がないので下宿のオーナーに言われ、2,3日ガーディナーに仕事を教えてもらうため、タダ働きした。仕事を覚えると、その翌日から仕事を教えてくれたガーディナーが私ヘルパーとして雇ってくれた。朝食を摂り食堂で待っていると小型トラックに草刈り機や梯子、ほうき、長いホースなどガーディナーの商売道具を積み、ガーディナーが私を迎えに来た。私は下宿屋が用意してくれたアメリカ式の弁当箱を抱え、ガーディナーの運転する横に座り、フリーウエイを走り、契約している顧客の家を目指した。顧客宅に着くと私は芝刈り機で裏と表の庭の芝生を刈りはじめる。その間にガーディナーは庭の植木や花壇の手入れをし、最後は太く長いホースで芝生のごみなどを洗い流し一軒終わりである。ガーディナーはこの作業を約一時間で終えるが、ヘルパーと二人では三十分で終える。夏場は芝の伸びが早く、一日に7,8軒こなすのは疲れるのでガーディナーはヘルパーを雇う。ガーディナーの仕事はテキパキとして速く、仕事が丁寧なのでアメリカ人もそれを知っており、戦争には負けたが、日本人は信頼され尊敬されていた。ヘルパーの賃金は一日15ドル(5,400円)だった。アメリカは週休二日制だったが、荒れた庭の手入れなど臨時の仕事が休日にはあったので学校のない夏の間は日曜日以外休まず、八月末までに約700ドル(約25万円)稼いだ。この金額は日本での私の一年分の給料に匹敵した。植村直己もこの下宿屋に入り、同じころガーディナーのヘルパーで稼ぎ、その後フランスへ渡り、1964年11月、ヨーロッパの最高峰モン・ブランを単独登頂している。このことは、後で知った。当時、彼はまだ無名だったので、下宿人の多い下宿屋では挨拶ぐらいはしたかもしれないが彼に会った記憶にはない。1968年7月、バイクで世界一周の途中、ジュネーブからレマン湖を経由して、シャモニからモン・ブランへはロープウエイで登った。山頂から望む直下の夏のシャモニは非常に美しかった。帰国したら植村直己に一度会いたいと思っていたがその夢はかなわなかった。昨年、多くの知人が参加する植村直己冒険賞の授与式に参列するため豊岡の会場に出かけた。目的は植村直己が働いたというカルフォルニアの葡萄畑の場所を冒険館のスタッフに確認するためだった。しかし、スタッフは誰もその場所を知らず、反対に私が1964年7月、デラノの葡萄畑で働いた詳細を話すに過ぎなかった。話を元に戻すが、ヘルパーをしていた時多くの有名人の庭も手入れに行った。中でも忘れられないのがドリス・デイとTVドラマ「ローハイド」のコック役をしていた俳優ポール・ブラインガーである。女優はおばさんでも「ミス」と呼ばないといけないそうであるが、「ハロー、マム(奥さん)」と挨拶したらドリス・デイにはキッと睨み返された。コック役のポール・ブラインガーは前年(1963年)日本のテレビ局の招待でクリント・イーストウッドたちと日本に行き日本が大好きになっており、ビールをごちそうになり、彼の家はハリウッドの奥で、暑く、居間のソファーで居眠りし、ボスのガーディナー氏に怒られた1964年のロサンゼルスの夏であった。
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