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 2020年6月にパワハラ防止法制が施行される  旧職員 太田徹次  2020年6月2日(火) 2:43
 コロナが終息しないうちに自粛解除(兵庫、大阪、等)がされました。第2波が心配です。これまでの感染症と違い感染症状がないのに感染している事が周りの人に感染を広げていくところです。さて上記の表題のパワハラと契約満了により私は前職を辞職しました。名前を挙げても良いのですが(控訴も考えました)が今は控えておきます。短い期間とは申せ義理人情からお世話になりましたので、感謝しております。人の前に立つ事から、教員には、人気商売ゆえに芸人同様に旬(生きの良さ)が必要だと改めて痛感しました。大学と言いながらそのような常識の無い人が働いている事も事実です。大きく考えると日本は中国からの一種のパワハラを受けているのではないか?とも言えます。パワハラの定義をしつかり理解し、そのような事象が起きた時には間髪を入れず申し出る事が解決の糸口なのでしょうか。職場の統括管理者にもよります。私のこれまで出会った方で元シャープの欧州統括部長さんや前職のセンター長さんは、後輩を育てる目的で自腹でこの本を読みなさいと推奨して本をプレゼントされていました。たまたま町でその後輩と出会った時には、後輩の方から挨拶に来られていたのを私は偶然お見掛けしたことが有りました。その元シャープ欧州統括部長さんは人格者であると今でも確信し、今もお付き合いをさせて頂いています。

 コロナ感染の死亡者はより年配の人程高く、治療しても後遺症が有るかも?  旧職員 太田徹次  2020年6月3日(水) 15:31
 90周年記念の開催が待ち遠しいですが、コロナ感染に関しては、より高齢者の方が死亡率は高いので、安全のために欠席された方が良いのではないでしょうか、もちろん本人の希望が第一優先です。また、感染後治療出来ても、血栓が出来やすくなるという後遺症が報告されています。血栓が脳の血管に出来ると、脳血栓や脳梗塞になりやすくリスクも大きくなります。コロナにかからない事が大事です。注意深く、分かつていないも事く、デマも多いため、正しい情報を得るために論文検索し、報道やネット検索でいち早く確認する必要が有ります。

 1968年のバイク世界一周(4)  大迫嘉昭  2020年6月4日(木) 9:47
ロサンゼルス
バイト見つからず

1964年7月4日、サンフランシスコからロサンゼルスに着き日本人町で「皿洗い」のバイトを探したが見つからなかった。iPhoneやコンピューターもない時代、日本から、直接、ロサンゼルスの日本人町のレストランにコンタクトして求人募集情報を得るなどできない時代、英語学校が始まる9月初めまで、生活費を稼ぐつもりでいたができなかった。帰国するにも片道切符で来たので不可能だった。留学生が餓死したなどというニュースは聞いたことはなかったので、ホテルの経営者に聞けば、何か情報を得ることができるかも知れないと考えホテルへ戻り、彼に事情を話した。すると、夏は芝の伸びが早くガーディナー(庭師)のヘルパーをすればグッド・マネーになるが経験がない私には無理だと言って、「ユー、葡萄摘みに行けヨ」と、カウンターのメモ用紙に葡萄農家の情報を書き込み私にくれた。その葡萄農家はロサンゼルスの北約200km、デラノにあり、経営者は日系人で、夏は葡萄の収穫期で猫の手も借りたいほど忙しく、間違いなく雇ってくれるし、学校が始まるまでの二か月間で700ドル(日本の年収25万円)ぐらいは稼げると言った。ホテルの経営者とデラノの葡萄農家の主人とは第二次世界大戦中、マンザナの強制収容所で知り合った友達だと言った。私は稼げるならどんな仕事でありがたかった。翌朝、日本人町のホテル近くのバスターミナルからサンフランシスコ行きのグレイハンドバスに乗り込んだ。乗客は女や子供連れのメキシコ人季節労働者、年老いた白人や貧しそうな黒人たちで込み合っていた。バスはハイウエイ・ルート99を北へスピードを上げ、時折、畑に囲まれた民家もないところで停まり、季節労働者のメキシコ人たちを降ろしては二時間ほど走り続けた。ベーカーズフイルドのを過ぎると、見渡す限り葡萄畑が広がり始めた。バスは緩やかな坂を下り、サザン・パシフィック鉄道のガード下を潜り抜け、デラノのバスターミナルに着いた。バスを降りるとホテルの経営者に教わったよとおり、ターミナル内の公衆電話から葡萄農家へ迎えを頼む電話をした。迎えを待つ間、私はターミナルの外にあるベンチに腰掛けタバコを吸いながら時計を見ると四時を少し回っていたが、太陽は熱射を浴びさせるように照り付けていた。周りを見渡すとデラノは南北に走る一本の広い道路に沿ってガソリン・スタンド、レストラン、雑貨屋、散髪屋、農耕機具屋などがポツン、ポツンとあるほんの数百メートル四方の小さな町のようであった。交通量も少なく、車は道路沿いの店頭へ頭を斜め向け駐車しており、まるで西部劇映画のような雰囲気の街であった。二十分ほど待っていると、小型トラックが止まり葡萄農家のミセス・K笑顔で降りてきた。手拭いを頭からかぶり、地下足袋を履いた日本の百姓女とは違い、四十半ばの彼女は浅黒く日焼けし長い髪を後ろで束ね、白シャツにジーンズ、セミ・ブーツ姿のスラっとした日系女性であった。彼女は少し英語のアクセントはあったが、上手な日本語を話した。型通りのあいさつを済ませると、私を載せた小型トラックはデラノ町を出て、地平線まで広がる葡萄畑の農道を二十分ほど走り、葡萄畑に囲まれた平屋の前で止まった。すでにロサンゼルスのホテルの主人から連絡があったようで、私とミセス・Kを載せた小型トラックが到着すると、平屋から作業着姿の五十歳前後の男性が英語交じりの日本語で愛想よく型通りのあいさつをして私を平屋へ迎えてくれた。平屋はこの葡萄農家の事務所と母屋を兼ねていた。中では三人の若い女性と中年の男が事務を執っていた。私を事務所に招き入れた男性はサムという葡萄農家のオーナー、三人の女性はサムの娘たちで大学の夏休み中家業を手伝っていた。中年の男性はサムのいとこでジョージと言い、農園で働く作業員たちの管理をしていた。しばらく雑談の後、私の契約の話になった。ホテルの主人が言っていたようなオイシイ話ではなく、この年はブドウの収穫時期が遅れ、しばらくは葡萄を摘み箱詰めする出来高制の仕事ではなく、葡萄に太陽を当て葡萄の成熟を早めるため、葡萄の周りの葉を抜いたり、枝を切ったりする時間給の作業をすることになった。この作業の時間給は一時間、一ドル十五セントだと言った。これでは食事代などを引かれるといくら残るか不安になった。賃金と仕事の話が終わるとサムは私が寝泊まりする建物のへ案内した。建物は白ペンキが剥げ落ちた粗末な小屋であった。小屋の中にはスプリングの利かない古いベッドが八つほどあり、裸電球が二、三個ぶら下がり、埃をかぶった年代物の小さな木製の椅子と机、電気スタンドがそれぞれベッド脇に備え付けられていた。中は薄暗くまるで映画で観たアウシュヴィッツ強制収容所のような部屋で気持ちが悪かった。日本では扇風機の普及率が50%ぐらいであったが、このおんぼろ小屋には騒音はまき散らすが古いエアコンがあった。それに入り口のドアは網戸付きの二重になっており、これなら蠅とり紙や蚊取り線香もいらない、さすがアメリカだと感心し、カルチャショックを受けた。部屋には死んだように身動きひとつしない老人がベッドに横になっていた。ここには労働者が寝泊まりするこのような小屋が十戸ほど並んでいた。

 1968年のバイク世界一周(5)  大迫嘉昭  2020年6月10日(水) 9:37
デラノ、「怒りの葡萄」の舞台 
詳しいことはわからないが、ベッドで横になっている同室の朝鮮半島出身という老人は彼が子供のころ、親戚の者に連れられアメリカに密入航、季節労働者としてカリフォルニア中の農家を作物の植え付けや収穫シーズンに合わせ一年中移動しており、数日前小屋の入り口の階段で転び足をねんざし寝ていたようだ。鉄板を叩く音で目が覚めた。夏時間の5時である。冬なら4時で真っ暗であるが、外は明るかった。用意された作業着、靴を履き食堂へ向かった。夏とはいえ外は日本の晩秋のように寒かった。食堂は小屋の隣にあった。食堂に七、八十人は座れそうな長いステンレース製のテーブルと長椅子が並べられていたが、葡萄の実りが遅れ、六十過ぎの日系人季節労働者十五、六人だけが賑やかに話しながら食事していた。私が食堂に入るとミセスKがそこにいた人たちを紹介した。コックは静岡から来たという三十半の男性で、賄はコックの奥さんとミセスKがしていた。食事をしていたリーダー格の季節労働者ケンが私の面倒を見てくれることになった。6時半、労働者を管理しているサムの従弟ジョージがトラックを食堂前に止め、我々を迎えに来た。その日の作業は葡萄の葉が太陽を遮り、葡萄の実りが遅れている葡萄の房に太陽が当るように葡萄の房の周りを覆っている葉の束を柵の反対側へひっくり返す作業である。トラックの荷台に我々が乗り込むと、葡萄畑に囲まれた広い庭を猛スピードで葡萄畑の農道を東へ走り出した。荷台の我々は歯が合わないほど寒く、肩を寄せ合って座っていた。地平線に太陽が昇り始め、月はぼんやりと白く、色鮮やか赤色に染まった小さな山々が輝いていた。リーダーのケンがあれはセコイヤだ、その左がヨセミテだと私の耳元に口を当て大声で教えてくれた。五分ほど走ると見渡す限り葡萄畑の一角にトラックは止った。あまりにも広いのでどこからどこまでがサム家の葡萄畑かわからなかったが、幅二メートル間隔で何百という葡萄棚が百メートルほど先まで伸びていた。ジョージの号令とともに、その棚の間一つ、一つに並んだ我々は垂れ下がった葡萄の蔓を柵の反対側へ両手で抱えひっくり返して進んだ。丁寧にやっていたのではこの広い葡萄畑では仕事にならないので、適当にやれとケンは言った。農作業などやったことのない私は老人たちに遅れあせった。葡萄畑には夜スプリンクラーで水が捲いてあり足元は泥んこ状態になっていた。葡萄の束を抱え反対側へひっくり返そうとすると勢い余って束を引きちぎり泥の中へひっくり返り、体中一瞬に泥んこになった。私はすぐ疲れた。この一年間、留学試験勉強で睡眠三時間の日が続いていたので無理もなかった。学生時代勉強が嫌いで、落ちこぼれであった私ではあったが、この受験勉強は楽しく、信じられないほど能率が上がった。それは航空会社で働きたい、そのためにはアメリカ留学という目的があったからである。勉強は強制されてするものではないと分かったのもこの時であった。目的のない勉強は時間の無駄なのだ。葡萄畑は時間の経過とともに太陽は輝きを増し、すべてのものを焼き尽くすのではないかと思うほど暑くなってきた。畑にしみ込んだ水は湯気を噴き上げ、空は雲一つなく晴れ渡り、葡萄畑全体から蒸発する水蒸気で、太陽は霞み景色は白く揺らいでいた。暑さから逃げることもできず、朝は元気のよかった老人たちも昼からは疲れたのか押し黙り、時折、何が原因か大声で口喧嘩をした。我々を監督しているジョージはトラックの荷台から我々を見張り大声でどなった。午後四時、朝七時からからの作業がやっと終わり、小屋の前に十数台並んだ囲いのないシャワーで体を洗う。その前ではこれも囲いのないトイレが同じ数ほど並んでいた。夕方になるとサムの娘たちは売店を食堂前で開き老人たち相手にビールやたばこなどを売り始めた。仕事から帰った老人たちは娘たちの売店でビールを買い、大声で古い日本の歌を歌い、若いころの自慢話や、故郷へ錦を飾る夢を私に語るのであった。しかし、週給を貰った彼らは夜になるとデラノの飲み屋に繰り出し、スッカラカンになっていた。彼らは大正の末から昭和の初めにかけ南米へ移民の途中、メキシコやぺルーなどの港で船から逃げ出し、徒歩で北へ向かい、アメリカへ密入国した連中だった。彼らは画用紙を何重にも折りたたんだようなパスポートを大事そうに抱えていた。ある日、朝食を摂りながら、ロサンゼルスから一日遅れで送られてくる日系新聞「羅府新報」を見ていると、「ガーディナーのヘルパー募集、比嘉ボーディング」の広告が目に入った。

私はデラノのところを大分省略して書いているが、デラノ近辺はジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」の舞台になったところである。デラノの西サリナスは彼の故郷でレタス畑が広がり、「エデンの東」の舞台でになった。冒険家植村直己も私と同じころデラノ近くで葡萄摘みのバイトをしている。彼の著書「青春を山に賭けて」に「葡萄畑は暑いところだった」と書いている。ここを読むと私は彼とは戦友だと勝手に思っている。興味のある人はレンタカーで彼らの足跡を訪ねる旅もいいと思う。


 渡米の切っ掛けは友人の兄のコロンビア大院留学と小田実の本から  旧職員 太田徹次  2020年6月13日(土) 18:11
友人の兄(後に関西学院大文教授)と「なんでも見てやろう」小田実著に触発されて留学しました。留学するには、toeful試験(当時は700点満点、現在は変更されているようです)でかなりの高得点が必要です。得点により留学先の大学を選ぶ事ができますが、スタンフォードやバーバードの私立名門校には、500点以上の高得点が必要です。取得した得点でUnivercity、College、コミュニテイ school等を選択します。たとえ留学できたとしても、授業の内容が理解できなければ、1時間何ドルかで補習を受けなければ合格とはならず単位は取得できませんし、進級もできません。丁度自動車学校の検定進級と同じシステムです。「バイクで世界一周」の大迫さんが偉いと思うのは、4年間で卒業出来ている所です。米国大は入学も卒業も簡単だとよく言われますが、英語の原書のテキストを読解し、授業も理解するのはかなりの努力が必要です。日本の大学は入学は難しいが進級卒業は簡単とは違います。合わせて話しておきますが、国際的言えば、Univercityは4年制大学ではなく、大学院を持っ大学かもしくは医学部を持っ大学です。早稲田と慶応大学を比較すると慶応には医学部がありますので、Univercityという事に成ります。但し、早稲田にも大学院が有りますから同じ格だとも言えます。4年制大学でも大学院無しか医学部も無ければCollegeとなります。9月入学が一時話題になりましたが多くの日本の大学は国際的に見ればこのCollegeになるのではないかと考えています。大学の「質の改善」が国際化に向けて必要になります。私の大学院時代の主任指導教官はノーベル賞学者福井健一と同窓生だったみたいで研究に全精力を掛けておられました。自宅で夕食を食べた後、夜9時頃大学に戻ってこられていました。私達院生はその時間論文検索やら追試実験やらデータ整理していましたので、いつも寮に戻るのは御前様でしたから良く分かっていました。話を留学に戻しますと、コロンビア大は教育学の分野では、名門校で、友人の兄さんは後に関西学院大の英文科教授に成りますが、1日の睡眠時間は3時間くらいと言ってられたように思います。この人と小田実著の「なんでも見てやろう」の影響で友人が渡米するのを機に私もtoeful試験を灘のカナデアンアカデミーで受験してその得点から大学を選び留学しました。夢校の生徒さんは米大学留学前に語学力を最低英検準1級程度は身に付けて下さい。できれば、スカラシップを貰って留学しないと、授業料と生活費1カ月100万くらいかかりますので、私費留学ではなく大迫さんのように公費留学を狙ってチャレンジして下さい。

 お願い・太田徹次様  大迫嘉昭  2020年6月14日(日) 15:42
投稿なさるのはご自由でがですが、私の名前を出したり、私に確認もしないで事実でないことを創作して、投稿なさるのはおやめください。以後一切私に関することは記述、投稿はしないでください。

 1968年のバイク世界一周(6)  大迫嘉昭  2020年6月16日(火) 8:54
ロサンゼルス・ガーディナーのヘルパー

ドリス・デイ、ローハイド

すでに中部カリフォルニア、デラノのサムの葡萄畑で二週間働いたが、食事代や税金を引かれると四十ドル前後しか残らなかった。このまま葡萄畑で働いていても九月から始まる英語学校へは入れない。ロサンゼルスのホテルのオーナーが金になると言っていたガーディナーのヘルパーのことを思いだし、新聞広告を見て、すぐそのボーディングに電話をした。ボーディング、つまり「ボーディング・ハウス」とは日本語でいう「下宿屋」ことである。一ヵ月ボーディングは三食付き六十五ドル。ロサンゼルスまでのバス代を払うと、手元にはほとんど残らなかった。その下宿屋はロサンゼルスの中心、ベニス大通りとウエスタン大通りの交差点近くにあった。当時、ロサンゼルスは平屋がほとんどであったが、この下宿屋はかって白人の豪邸で、二階建てで大きく部屋も多く、ここに下宿すればガーディナーのヘルパーの仕事を世話してもらえるので、発展途上国、日本からの若者が常に60人ほど下宿しており、賑やかで大学や会社の寮のようであった。ガーディナーはロサンゼルスの日系人の生業であった。毎朝、下宿人が食堂で待っていると、小型トラックに作業道具を積んだガーディナーが次から次へと来て、下宿人をヘルパーに雇って仕事場へ出かけていた。私はヘルパーの経験がないので下宿のオーナーに言われ、2,3日ガーディナーに仕事を教えてもらうため、タダ働きした。仕事を覚えると、その翌日から仕事を教えてくれたガーディナーが私ヘルパーとして雇ってくれた。朝食を摂り食堂で待っていると小型トラックに草刈り機や梯子、ほうき、長いホースなどガーディナーの商売道具を積み、ガーディナーが私を迎えに来た。私は下宿屋が用意してくれたアメリカ式の弁当箱を抱え、ガーディナーの運転する横に座り、フリーウエイを走り、契約している顧客の家を目指した。顧客宅に着くと私は芝刈り機で裏と表の庭の芝生を刈りはじめる。その間にガーディナーは庭の植木や花壇の手入れをし、最後は太く長いホースで芝生のごみなどを洗い流し一軒終わりである。ガーディナーはこの作業を約一時間で終えるが、ヘルパーと二人では三十分で終える。夏場は芝の伸びが早く、一日に7,8軒こなすのは疲れるのでガーディナーはヘルパーを雇う。ガーディナーの仕事はテキパキとして速く、仕事が丁寧なのでアメリカ人もそれを知っており、戦争には負けたが、日本人は信頼され尊敬されていた。ヘルパーの賃金は一日15ドル(5,400円)だった。アメリカは週休二日制だったが、荒れた庭の手入れなど臨時の仕事が休日にはあったので学校のない夏の間は日曜日以外休まず、八月末までに約700ドル(約25万円)稼いだ。この金額は日本での私の一年分の給料に匹敵した。植村直己もこの下宿屋に入り、同じころガーディナーのヘルパーで稼ぎ、その後フランスへ渡り、1964年11月、ヨーロッパの最高峰モン・ブランを単独登頂している。このことは、後で知った。当時、彼はまだ無名だったので、下宿人の多い下宿屋では挨拶ぐらいはしたかもしれないが彼に会った記憶にはない。1968年7月、バイクで世界一周の途中、ジュネーブからレマン湖を経由して、シャモニからモン・ブランへはロープウエイで登った。山頂から望む直下の夏のシャモニは非常に美しかった。帰国したら植村直己に一度会いたいと思っていたがその夢はかなわなかった。昨年、多くの知人が参加する植村直己冒険賞の授与式に参列するため豊岡の会場に出かけた。目的は植村直己が働いたというカルフォルニアの葡萄畑の場所を冒険館のスタッフに確認するためだった。しかし、スタッフは誰もその場所を知らず、反対に私が1964年7月、デラノの葡萄畑で働いた詳細を話すに過ぎなかった。話を元に戻すが、ヘルパーをしていた時多くの有名人の庭も手入れに行った。中でも忘れられないのがドリス・デイとTVドラマ「ローハイド」のコック役をしていた俳優ポール・ブラインガーである。女優はおばさんでも「ミス」と呼ばないといけないそうであるが、「ハロー、マム(奥さん)」と挨拶したらドリス・デイにはキッと睨み返された。コック役のポール・ブラインガーは前年(1963年)日本のテレビ局の招待でクリント・イーストウッドたちと日本に行き日本が大好きになっており、ビールをごちそうになり、彼の家はハリウッドの奥で、暑く、居間のソファーで居眠りし、ボスのガーディナー氏に怒られた1964年のロサンゼルスの夏であった。

 1968年のバイク世界一周(7)  大迫嘉昭  2020年6月21日(日) 9:07
墓地で働く、その(1)
1964年9月、カリフォルニア州立英語学校に入学した。授業は午前(08:00-14:00)と午後(14:00-20:00)に分かれていた。私は午前の授業に出て午後はバイトしようと目論んでいたが、午後のクラスへ回された。午後8時に学校が終わるのでは、夜中のバイトは見つからず、下宿屋のおやじにバイト探しを頼んでおいた。すぐバイト見つかった。下宿屋のおやじは「墓の仕事だが・・・、ほかの連中は気持ちが悪いのか断るが、ユーどうかね」と、言った。どんな仕事でも金になることならどんなバイトでもよかった。バイト先は下宿屋から徒歩で十分ほどにある墓の草刈りであった。私はこんなに早く見つかるとは思っていなかったので、反対にそのこが驚きであった。墓はVenice BlvdとNormandie Ave.の一角、縦横200m四方、レンガ塀に囲まれたパームツリーや草花が茂り、芝生の中に整然と墓石が並んだ広い公園のような墓だった。葬式全般は三人の白人スタッフが仕切り、墓の清掃と草刈は武藤さんという福島出身の七十歳ぐらいの日系人が墓と直接契約していた。彼の下には四人のスタッフがいた。全員バイトでひょうきん者の鈴木は東京の本社から派遣された三十五歳ぐらいの元駐在員、給料が安いので会社を辞め、ここで草刈りのバイトをしていた。ヨギは帰米二世(アメリカ生まれの日本育ち)でベトナム戦争がエスカレートし始め、いつドラフト(徴兵)されるかわからないからと、定職には就かず草刈りのバイトに甘んじていた。ナカソネとタマシロはペルーの日系三世で、私同様留学生であったが、日本語はほとんど話せなかった。鈴木以外は私と同世代であった。毎朝七時に出勤すると事務所でコーヒーを飲みながら雑談の後、小型トラックに手押しの草刈り機を乗せ狭い墓道をゆっくりと走り、ボスの武藤さんが大型草刈り機ですでに草刈り中のところへ向かい、手押しの小型草刈り機をトラックから下ろす。墓石を傷つけないようにあえて、武藤さんが刈り残した墓石の周りの芝を手押し草刈り機で押したり引いたりしながら、200mほど先まで一直線に並んでいる墓石の周りを切っていくのが我々の仕事であった。暑いデラノの葡萄畑の仕事とは違い実に簡単で楽だった。9時ごろになると皆で出し合った小銭でコーヒーやドーナツを買い、パームツリーの下、墓石や芝生に座り、それぞれ好きなように休憩をした。鈴木は朝っぱらから上半身裸で草刈り機を動かし、休憩時は転がっている適当な墓石で体を鍛え、日本語の話せないタマシロであったが、ブラジルでのど自慢に出て賞を取ったこともあるとかとかで、大きな墓石に胡坐をかき「並木の〜雨の〜♪」と日本の古い歌謡曲を歌っていた。ナカソネの祖父母は沖縄からペルーへ移民し、ヨギはロサンゼルス生まれの沖縄育ちで英語も沖縄の言葉も話せたので、二人は英語で沖縄のことをよく語り合っていた。戦前日本語学校の校長であったという我々の仕事場のボス武藤さんは、墓石に腰掛けコーヒーを飲みながら、よく太平洋戦争時代の経験を話してくれた。私はコーヒー・ブレーィクに彼の話を聞くのが楽しみの一つであった。武藤さんは戦争がはじまると直ぐスパイ容疑でFBIに連行され、スパイ容疑で厳しい取り調べを受け、その後、家財道具を二束三文で売り払い、家族ともどもマンザナの強制収容所へ入れられた。マンザナは第二次大戦中、米本土に十か所設けられた日系人を収容する強制収容所の一つで、中部カリフォルニア、シエラネバダ山麓の砂漠のど真ん中にあった。夏は気温五十度を超える時もあり、冬は四千メートル級のホイットニー山から吹き付けるからっ風で非常に寒い劣悪な環境だったようだ。そのうえ、粗末な造りの建物は床板の隙間から砂塵が部屋へ吹き込み、夜ベッドに入ると屋根の隙間から星がきれいに見えたもんだよと、なつかしそうに話してくれた。
(注)読者に楽しんでもらうためブログ様式に画像、写真を入れようと思いましたが出来ませんので、出来るだけ詳しくその場所の所在地を記入しますのでGoogle mapでお調べください。また見たい所があればご連絡ください。まず私が働いた墓(Angeles Rosedale Cemetery)の場所はLAのド真ん中、東西に走っているVenice Blvdと南北に走っているNormandie Ave.の角です。

 1968年のバイク世界一周(8)  大迫嘉昭  2020年6月23日(火) 13:07
墓で働く、その(2)
墓では毎朝、仲間内で、誰よりも早く事務所に来て、交代でコーヒーを沸かすルールがあった。ひょうきん者の鈴木以外、我々はこのコーヒー当番が実にイヤだった。コーヒーを沸かすのがイヤというのではなく、それをおこなう場所の環境に問題があった。事務所は人目に触れにくい少し奥まったところにあり、その前には火葬用の焼却炉があり、ここで火葬された身元不明者の生ゴムのデスマスクが、事務所の壁に十個ほど無造作にぶら下げてあり、この事務所の隣は作業場で、板切れで雑に作られた火葬用の棺桶が、開けっ放しのドアの先に見え、口笛を吹きながら気持ちよくコーヒー沸かすという気分にはなれなかった。今はどうかわからないが当時はほとんど土葬だった。時々、白人のスタッフが事務所前の屋根のない火葬用焼却炉を前で作業していた。彼は焼却炉の蓋を開け、花壇で使うような小さなスコップで、貝殻を金づちで叩き粉々にしたような小さな骨と灰をバケツに取り出し、それをコンクリートの地面一杯に広げ、素手で灰にうずまり、チューインガムのようになった金歯を漁っていた。それを空ビンに溜めて、ある程度溜まったらバーナーで溶かし、メイン・ストリートのポーン・ショップ(質屋)へ売りに行っていた。また葬儀屋から運ばれてきた上等の棺桶から、彼らが作った棺桶にホトケさんを移し替え、葬儀屋から運ばれてきた棺桶は葬儀屋に引き取らせていた。事務所の裏隣にある葬祭堂の奥には遺体安置所があった。時折、カリフォルニア大の医学生だという二十歳前後の女性が、そこで一体三十ドルの死に化粧をしに来ていた。「見ないか?」といつも奥からウインクしながら、誘ってきたが、我々の返事は、いつも「ノー、サンキュー」であった。アメリカでは人生の最後だけは、貧乏人、金持ち、人種の差別なく、同じ世界一の高級車、黒塗りのキャデラックのリムジンで運ばれていた。日本と違うのは霊柩車の後に続く遺族や友人知人の車は昼間でもヘッドライトを付け、「天国までノンストップ」とばかり、二台の白バイが先導し赤信号でも止まらず墓場へ直行していた。埋葬用の穴は白人スタッフがパワーシャベルで、深さ6フィート(約1・8メートル)まで掘り、そのあと棺桶が安定するように穴の中に入り、スコップで凸凹したところを削るのだが、ロサンゼルス一帯の地下には油脈が通っており、掘った穴の底にはジワジワと真っ黒な原油が滲み出てくるので、いつも葬式の日は、彼らの靴や作業着は油まみれになった。原油の滲み出る墓地に棺桶を埋葬すると、棺桶の隙間から原油がしみ込みホトケさんが油まみれになるので、コンクリートで棺桶を作り、それに木製の棺桶を入れ、コールタールで隙間を密封してから埋葬していた。南カリフォルニアは一年を通してほとんど晴れだが、十二月から一月にかけてよく雨が降る。雨が続くと、墓の芝刈りは危険極まりなかった。墓地全体の芝が雨を吸い込み、その重みでコンクリートの棺桶を使っていなかった時代の木製の棺桶が壊れ、作業中の足元が突然陥没して腰まで埋まったことがあった。こうなれば、一人でいくらもがいても抜け出ることはできず、仲間全員で引き揚げてもらった。着ているものが汚れるのは仕方なかったが、棺桶のホトケ埋まった私の足を引っ張るような気がして気味悪かった。私は無宗教であるが、アメリカの墓で働き仏教の宗教観自然に体にしみ込んでいることを始めて感じた。「ホトケさんが枕元に立った」という年寄りの怖い話や子供のころ見た怖い幽霊映画、線香の煙が漂う薄暗い墓、どれも薄気味の悪い仏教に関係するもの、それが脳にインプットされ無意識に仏教感を作っていることを知った。

 1968年のバイク世界一周(9)  大迫嘉昭  2020年6月25日(木) 16:12
墓で働く、その(3)
アメリカでは亡くなった人の霊がベッドの枕元に立ったとか、雨の夜、額に三角巾を付けたジョン・ウェインの幽霊がサンセット大通りのパーム・ツリーの下に現れたという話など聞いたことがなかった。そのためかどうかわからないが、墓地で白人や黒人のホトケさんを見ても日本人のそれを見るとでは気分も感情も受け取り方は全く違った。もっともアメリカの墓は公園のような雰囲気があり、私は毎日仕事というより
ピクニックに行くような気分であった。あの早朝の珈琲沸かしは嫌だったが…。タマシロやナカソネは宗教感の違いか、トイレがわりにいつも平気で墓石に小弁を飛ばしていた。いくら単純な私でも日々墓石に囲まれ働いていると、ふと人生について考えることもあった。留学生は週二十一時間の労働は認められていたが、病気以外休むことは許されなかった。学校は移民局に生徒の出席率を報告しており、出席率の悪い生徒は、即、強制送還であった。1960年代、アメリカは世界一豊かな国で賃金も高く、日本の四、五倍は稼げたので、旅行者として米国に入り、ビザの切れた日本人不法滞在者が多かった。後年、死者が出てメディアで話題になった「ヨット・スクール」の校長も私と同じ英語学校に来ていたが、クラスが違い話したこともなかった。生徒の出身地は沖縄、鹿児島、広島、和歌山など移民の多い県出身者が多く、彼らは「呼び寄せ」というビザできた連中で、学生ビザに切り替え、英語学校を永住権獲得までの「避難場所」として利用していた。私が入学した年のクラス教師はメキシコ系の三十過ぎの単純な性格の女性であった。クラスの7割以上は隣国メキシコ人からの学生だった。常識的には大西洋を隔てたヨーロッパ人はニューヨークなど東の英語学校で学ぶので、西のカルフォルニアで英語を学ぶヨーロッパからの学生は数えるほどであった。私のクラスにはギリシャから男性一人、フランスから女性一人だった。このフランス女性とは偶然、帰国してすぐ、大阪本町の交差点で信号待ちしていたとき会った。彼女は留学中、英語学校で知り合った大阪薬問屋の金持ちのボンボンと結婚、ズウズウ弁のような訛りのある大阪弁を話していた。あの頃、二十歳そこそこだったから、彼女も、もう七十は越している。話をメキシコ人教師に戻すと、彼女はアメリカは世界一豊かな国、自由な国で民主主義の国であることを強調、「コミュニズム学校で(共産主義)」ほど、恐ろしいものはないと授業から外れ、延々と強調することが多かった。ある時、単純な極まりないこの教師に「共産主義って、何でっか」と、質問すると「資本主義の国を共産化し、そこに住んでいる人々の奴隷化を企んでいるのですゾ」と、ムキになって私を説き伏せるように語気を強めた。私とて偉そうなことは言えないが、彼女の共産主義に関すでる知識は幼稚なものであった。一般アメリカ人は「コミニスト」とか「コミニズム」という言葉には過剰に反応し、ソ連や中国は恐ろしい国だと単純に決めつけていた。英語学校の一クラス30人ぐらい、テストにより、クラスはAからFまで6クラスに分かれていた。年に二回テストがあり、パスするとAあらBへ、BからCへと進級するのであるが、ほとんどのメキシコ人学生も日本人学生も世界一豊かな国アメリカへ親兄弟、親戚の「呼び寄せ」ビザできた連中が多く、英語学校を永住権獲得までの「避難場所」と決めつけ、わざと進級を遅らせていた。日本人学生のほとんどは、私よりも数年も前にアメリカに来ており、英語もうまかったのに私より下のクラスにおり、英語も話せない私が入学と同時に彼らより上のクラスCに入れられ、驚いたことがあった。私のクラスの日本人もそれぞれそのような事情があったので中々本音で話すものは少なかった。でもおばさんが天理教に信者で、宗教関係のビザできていた学生がいた。こいつはすごかった。

 1968年のバイク世界一周(10)  大迫嘉昭  2020年6月28日(日) 14:36
ビギナーズ・ラック

彼は私より一歳年下の23歳、四国出身で、私が高校時代、人気のあった柔道漫画の主人公「イガラシ君」のようなさわやかなで体の大きい男であった。時折、彼のアパートを訪ねると、彼は体系にかかわらず大きな指を器用に使い、中古のピアノを弾いていた。私が会った中では彼が一番頭も良く、天才的な男である。賭け事が強く、生活費や授業料は日本人町のマージャン屋や碁会所で日系人相手に稼いでいた。ある年、ロサンゼルスで開催された全米将棋大会で優勝し、日本人でありながら、「アメリカ代表」として日本へ派遣されたことがあった。航空運賃も高く、留学生が日本へ一時帰国するなど考えられない時代で驚いたことがあった。彼はその後大学に残り博士号を取り、帰国後、大阪道修町の米国系薬品会社の副社長になった。ロサンゼルス時代、彼は暇があるとピアノを弾いているか、如何にしてラスベガスで勝つか、常に研究していた。ラスベガスでもらってきたという、二個の使い古しの大きなサイコロを休むことなしに何度も何度も床に転がし、その出た数字を紙切れでは足らないと、トイレット・ペパーを長く引っ張り出し、無限に転がし出た数字をそれに書いて、常に勝率を研究していた。賭け事が好きというか、強いというか彼はラスベガスにはよく行っていたようで、ある週末、彼は私をラスベガスに誘った。私はラスベガスがどこにあるかも知らなかったし、興味もなく、時代劇映画で出てくる鉄火場のような暗いイメージがして、行く気は全くしなかったが、道中一人で行くのは退屈だからと頭を下げられ、しかたなく、彼の運転する車で6時間、モハべ砂漠を横切りラスベガスへ行った。ラスベガスは煌びやかな観光地であった。ギャンブルの運営で成り立っている。私たちは泊まらなかったが、ホテル、レストランもタダみたいに安いところだった。ラスベガスに着くや否や、彼は私にお構いなく「ダイス」という賭け事を始めた。興味のない私は彼の横でぼんやりツ立って、彼の賭け事を眺めていた。負けが込んできたのか、脇にツ立っている私が目障りになったのか、私にもやれと言った。墓の賃金一週間分45ドルしか手持ちのない私は一セントも無駄にできなかったが、彼の横で何もせずツ立っているのも申し訳なく、見よう見まねでしばらく付き合ったあと、我々はギャンブル場内のレストランに入り、私は、彼に促され、ポケットに詰め込んだチップをテーブルに並べると、彼が数え始めた。「ごっつい!1,200ドルぐらい勝ってるやん!はよ、ここでんとやられんで!」と、彼は驚いた。大金を持った私が襲われる危険があると彼は思ったようだ。私は、いわゆる「ビギナーズ・ラック」という奴であった。ロサンゼルスは車がないと、足がないとのと同じで動きがとれなかった。早速、ロサンゼルスへ戻ると中古であったが、カリフォルニアの空のような鮮やかなブルー色のフォードの小型車1962年型を720ドルで買った。私はこの車が気に入っていたが、どこが悪いのかよくバッテリーが上がった。バスを使うと下宿屋から学校までは乗り換えがあり、一時間ほどかかっていたが、車を使うと10分ほどで行け、すべてが便利になった。金銭的に余裕ができた私は下宿屋にはプライバシーがなく、アパートを探すことにした。植村直己も無名時代で、この下宿屋でガーディナーのヘルパーをして稼ぎ、フランスのモンブラン単独登頂に成功した。私がそれを知ったのは数十年後であった。戦後、駐留軍兵士と結婚しアメリカへ来た「戦争花嫁」が離婚し、ロサンゼルスの日本人町の飲み屋などで多く働いていた。不法滞在している発展途上国日本から来た下宿屋の住人は、その「戦争花嫁」たちと契約結婚し、世界一豊かなアメリカで住むため永住権を得ることが「水面下」では大流行していた。契約結婚して1年後、彼女たちと離婚すれば不法滞在者でも永住権を獲得でき、大手を振ってアメリカに住めた。しかし、ことは簡単ではなかった。契約の一年が来ると相手が離婚しないと言ったり、大金を要求したりと問題が多発した。妻子を日本に残し観光ビザで米国に入国、アメリカで豊かな生活を夢見てアメリカに入国、契約結婚し、契約の一年が来ても契約妻が離婚を承諾せず、日本に残してきた妻子をアメリカに呼ぶこともできないでいる悲劇があるこを後年聴いたことがある。


 内閣俯が次世代society6.0に必要とされる3人材を提示しています  旧職員 太田徹次  2020年6月28日(日) 19:00
3人材とは
1.飛躍知を創造できる人材
2.社会課題をイノベーション技術革新で解決し場を設定出来る人材
3.今のコンサルのような適切に課題解決の人材を結びつけ引き合わせられる人材です。
 一度society5.0(IoTの時代で遠隔農業/医療等)か内閣府で検索して下さい。こういう人材教育が出来れば夢校は輝けて研究指定を貰えると考えます。具体的人材育成のヒントになる具体的教育方法についてはお会いした時に、



 1968年のバイク世界一周(11)  大迫嘉昭  2020年6月30日(火) 17:14
アパート探し

ラスベガスへ嫌々ながら行ったが、ビギナーズ・ラックで大勝ちし、中古車を手に入れると通学時間も短縮、墓で働く時間も多少伸び、米国人の三分の一ぐらいの収入であったが、月に180ドルぐらい稼げるようになった。そして生活が軌道に乗り始めるとプライバシーのない下宿暮らしが嫌になり、アパート探しを始めた。今では考えられないことだが、1960年代、あの時代、日本人がアメリカに行き最初に考えることは、日本人が周りいないアメリカ人(白人)居住地区に住むことだった。私も同じ考えで、白人居住区へアパート探しに出かけたが、何軒訪ねても、いろいろ理由を付けて断られた。日本でも東京ならいざ知らず、今でも地方都市では毛色の違う外国人がアパートを借りに来たら、ほとんどの家主は保証人の有無を理由に断るだろう。白人にアパートの賃貸を断られたから、即、「人種差別」とは思わなかった。敗戦国、発展途上国の日本から来た貧乏な若造では断られるのも無理はないと、別に気にもならなかった。そんなことに、いちいち目くじらを立てていては、アメリカでは生活できないと思っていた。アジア系の私が白人居住区でアパートを見つけることは時間の無駄であった。私は気持ちを切り替え、日系人の経営するアパートを探し始めた。ロサンゼルスの居住区には暗黙のルールがあり、日系人は日系人居住区を作り上げていた。他人と住むより家族と住む方が、何か気持ちが落ち着くのと同じで、日系人居住地区に住む方が気分的に良く、楽だった。日系人居住区といっても、少数の金持ち黒人や、過去は白人居住地区であったそこに住まざるを得ない貧しい白人老人たちも、慎ましく日系人と共存していた。アメリカは世界各国から移り来た人々からなる移民国家である。だから人種、宗教、肌の色に関係なく、いろいろな人種が交じり合って住んでいのは事実であるが、実際は人種ごとに居住区を形成して住んでいた。ロサンゼルスも白人、黒人、日本人、メキシコ人と居住地区それぞれの人種ごとに住む地区が分かれている。日系人のアパートも日系人以外の人種に貸すのを嫌がり、「アパート空いています」と日本語で書いた立て看板を芝生の庭に立てていた。私の借りたアパートは築間もない白ペンキ塗りの二階建てで、借家人は除隊したばかりの帰米二世、幼子を三人抱えた日系三世の女性、ビバリーヒルズやハリウッド地区の金持ち宅でメイドをしている妻と、いつもテレビばかり見ている年老いた二世の夫、妻の連子の一家、三十過ぎのデザイナー姉妹、ヤマハの若い駐在員夫婦が一階と二階に別れ住んでいた。メイドの息子は義父と折り合いが悪く、高校生だったが学校にも行かず、どこで何をしているのか、時々アパート階段に腰掛け物思いに耽っていた。幼子を抱えた日系女性はシングル・マザーのようで、アパートの小さな芝生の庭で子供たちをあやしながら、通りすがりに私と目が合うと寂しそうな目で挨拶するだけであった。デザイナー姉妹の部屋は遅くまで仕事をしているようで常に光が窓から漏れていた。アメリカ生まれの除隊した帰米二世は広島で中学までいたそうだが、軍隊の三年間の英語漬けで、時々、日本語がおかしくなったと、苦笑いしていた。私の部屋はデサイナー姉妹と私と同年代のヤマハの駐在員夫婦の部屋に挟まれた、狭くて借り手のない60平米ぐらいの小さな部屋で、一か月45ドルだった。アパートの管理人は歯がほとんど抜け、話す口と顎がぐにゃぐにゃと動く七十近い日系二世の女性で、手拭いを頭にかぶれば野良仕事をしている日本の百姓バアさんのような雰囲気のある老女だった。彼女は日本には一度も行ったことがないと言っていたが、流暢な日本語を話し、「平凡」や「映画の友」などの月刊誌の愛読者で、特に吉永小百合の大ファンだった。彼女には独身の三十過ぎの息子が一人いた。どっぷり太った息子は日系三世にしては非常に愛想がよく、休日には母親を車に乗せ、日本人町へ雑誌を買いに行き、日本映画専門の映画館へよく行っていた。アメリカの家庭でもピアノのある家はまれであったが、ヤマハの駐在員の奥さんが弾くピアノ曲が部屋から流れ、休日には駐在員仲間とサンフランシスコやヨセミテなどへと車で遠出して楽しんでいた。彼ら、駐在員の豊かな生活を見るにつけ、オレも負けておれないと思った。アパートGoogle mapで見てください。1138 South Mariposa Ave.Los Angeles.50年以上経っているがそんなに古いアパートには見えない。