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 緊急事態宣言が5月末まで延長されました。コロナ蔓延の最中に年金改革法案が提出されました  旧職員 太田徹次  2020年5月3日(日) 18:53
https://www.j-cast.com/kaisha/2020/04/26384344.html?p=all」に報道記載があるように@年金改革法案が提出されました。まさしく政治不信です。私は3月末で大学を辞めました。今は年金生活者です。年金金額や支給開始年齢は契約であるはずなのに、契約途中で変更されるのは「泣くこと地頭には勝てない」と言われた江戸時代と変わっていないのではないでしょうか?。また、兵庫県の知事もメディアで再三報道されているようにA保障と一体で延長宣言を出さないと、商売をされておられる方々は倒産しないように知恵を絞って色々と無駄を減らす努力をされておられると思いますし、店舗やマンションの賃借料金(例えばスピークビル内の親蔦会の賃借料金も同じ)や固定資産税の支払いに一律10万円(消費10%を差し引くと)9万円では足りなくなります。それも1回のみとなるといつまで自粛が続くか分からないのに国会議員の政治家は分かっていないかワザと気が付いていない振りをしているようにしか思えません。庶民と議員との間の格差社会が益々広がって行くようで何とかして欲しいと願うばかりです。こんな愚痴を親蔦会で話す事も気が引けますが、早くコロナが終息してお会いできる日を楽しみにしております。B10期生の「世界初のバイクで世界1周」の著者で10期生の大迫さんからメールを頂きました。返信済です。英語版(amazon)から出るそうです。大迫さんに再び講師になってもらい留学して4年で米大学を卒業した勉強方法等、私はこれから留学するならカナダの大学の方を勧めます理由は英国英語と米国英語の両方を学べるからです。9月入学になりそうな世論があるから。私は卒業後の就職を考えると反対ですけれど、

 9月入学でグローバル化する意味は1,変化が早い世界に対応する2,価値観を変える  旧職員 太田徹次  2020年5月7日(木) 13:26
始めに10(9)万円給付について、海外ヨーロッパの早い対応を見ると、コロナ税という新税を徴収して国の財政再建に当てようとしています。日本政府も同じことを考えていると思います。ならば、早く給付してくれなければ配布の意味が有りません。海外9月入学でグローバル化すれば、当たりの事ですが、競争はより激しく成ります。夢校のカリキュラムを日本の国公立教育大進学目標から変えていかなければ
グローバルに対応できません。確か留学するには、最低限の教養が必要であり、これがリテラシー教育になっていたと思います。それと、人生哲学に必要な学問を創造して行かないと思います。皆さんのお知恵を是非とも集結して次の時代を担う生徒の育成に協力お願いしたいと思います。私も残り少ない人生を皆様と一丸になって充実できるように自己研鑽に励みます。

 考えが浅く間違いが有りました、国家試験は年に数回行い、就職は随時採用行うなら9月入学有りです。  旧職員 太田徹次  2020年5月9日(土) 14:43
 9月入学有りの条件として、国家試験は年数回行い、就職は随時採用出来るなら9月入学8月卒業も有りだ。世界に合わせれば、海外から日本に入ってくる学生も少なくともいるでしょう。但し、国内の学校、大学の魅力が有ればですが。当然入学や就職競争は激化します。夢野台がかって島に学習合宿した時代が有りました。これは実力、精神力を養成する為に閉じ込めてひたすら学習に集中する生活を送る事で体得出来ると計画したのです。初めに反対した理由は、寒い冬にたった1回の試験に体調を整えられなければ何事も出来ないと思うからです。どちらにしてもコロナ感染事件で気付かせてもらった事、学習した事が有ります。中国の製造サプライ工場、世界覇権の方法、日本の国内工場回帰しなければいけないこと、医療基盤の薄さ危うさ、国家議員の不誠実さ身勝手さ、等々、やはり死ぬまで戦い続けなければいけない、戦う武器を身に付けないと思いました。
 早くコロナが収束して夢高の貴重な人脈が集結できる日を待ち望みたいと思います。理事会が延期になり残念ですが、中止でなく良かったです。


 コロナ対策感染予防の新生活様式について  旧職員 太田徹次  2020年5月15日(金) 1:20
「厚生労働省のHP」を見ると、コロナ感染予防対策としての新生活様式が記述されています。次の5点を守り、「コロナに罹らない、うつさない!」とありますので、一度ご覧ください。
@social distannce(2m)の確保
Aマスク着用
B帰宅後手洗い30秒の励行
C人と会う時は屋内よりも屋外優先
D会話するなら真正面を避ける
以上詳細は厚労省hpを参照下さい。https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_newlifestyle.html

 平成の時代はIT産業令和の時代はAI産業でどの方面に就職するか  旧職員 太田徹次  2020年5月21日(木) 2:47
2019年末〜2020年に初めにかけて新型コロナの感染が世界で蔓延しています。恐らく2022年まで続くのではないかと危惧されています。現高3年生は先ずは大学入試で文科省の方針が英語の民間試験の導入問題から始まり9月入学で揺らいでいますので、落ち着いて学習に集中できないかも知れません。しかし、グロバル化とはこのように変化が激化し真の実力が試される時代です。しっかり学習の計画を立てて着実に実行するしかありません。計画どうり進まなければ修正すれば良いのです。PDCAとREPです。野球部の人は目指す甲子園が無くなりましたが、定期戦は有りますので日々の鍛錬に集中してください。兵庫県の自粛解除されるのを心待ちにしていますが、当面は見合わせたいと思っています。

 4月訪日予定の習金平主席は延期に、中国の政治的手法が注目  旧職員 太田徹次  2020年5月27日(水) 0:27
中国の日本領土である尖閣周辺の領海への不法侵入や一国2制度と矛盾する香港の暴力的な制圧事件を見ていると、日本はコロナ問題以外に元寇以来の中国の侵略を受けそうな状況であります。そもそもコロナ感染の原因である中国武官由来の新型感染症の責任回避のために、1.訪日し米国との中を取り持って欲しいというのが、現時点の訪日目的なのではないかと疑われます。安倍政権の支持率低下を観て、次の手を打ってくると又はA11月の米大統領選に在米(選挙権有り)中国人を使うのか、しっかり静観したいと思います。我が家にやっとマスクは届きましたが、10万円給付の申請書はまだ届いていません。

 今月の週刊誌女性自身によるとコロナの第二波は7月に来ると言われています。?  旧職員 太田徹次  2020年5月21日(木) 19:54
 コロナの感染に関しては、これまでの感染症の常識とは、少しずれている幾つかの事実が、有ります。皆様方が良くご存知だと思います。まとめますと1.感染力は発症前(味覚嗅覚無し、発熱等々)から始まる2.老人の方が子供よりも死亡率は高い(普通は逆です)3.感染すると急激に体調は悪化し、二度目は罹患しない抗体が出来る?とされています。季節性インフルエンザと同様に感染予防は、手洗いとマスクが有効とされています。感染経路は人人感染の為、社会的距離(social distance)を保っ事が飛翔体に感染源が含まれる事から重要だと言われています。


 1968年のバイク世界一周(1)  大迫嘉昭  2020年5月27日(水) 15:15
旅立ち

I have a dream.

人は自分と違う生き方すると「あいつは変わってるで!」というような表現で差別する。特に日本人は「右え倣え!」を好み、人と違うことをする人間は時として変人扱いされる。私が周りに、そのような眼でみられていたかどうかは知らないが、私には夢があったし、それに向かって、日々生きてきた。

私は夢校10回生である。在校中も今も同級生の中では存在感はない。これから週に一二度の割合で私の若い時の経験を述べるが、単なる自慢話ととるか,自己啓発のヒントになるかの判断はあなたにお任せする。願わくは脳の柔らかい在校生に読んで戴きたい。

人生百年時代と言われ久しいが、地球の年齢は45億年である。それに比べると宇宙の星が右から左へ移動する一瞬、それが我々人間に与えられた寿命の時間である。

人間にはその数だけの生き方があり、その寿命の時間をどう生きるかは、その人の考え方生き方次第である。一般論を言えば、良い悪いは別に、人は学業年齢を終えると就職し、結婚し、家庭を構えそれなりの問題を抱えながら人生という階段を上って行く。そして人生の終焉が近づくと、誰でも人はきっと「自分の人生、これでよかったんやろか」と考える時が必ずある。ない人は最高の人生を歩んだ人に違いない。私は学生時代を通して落ちこぼれであった。つまり「学業成績」が悪く、なんとなく就職したが、これと言って将来への夢もなかった。そして就職すると、同期の有名大学卒の連中は会社払いの下宿に住み、将来会社幹部としてのレールが敷かれていることを知った。いくら落ちこぼれの私でも、この社会の現実を知り、自分の人生がある程度決まっているのに愕然とした。就職すれば定年まで一つの会社で過ごすことが常識である時代だった。学校の成績、卒業した学校で自分の人生が決まる。私はこの現実を素直に受け入れることはできなかった。周りの社員はそれを受け入れ働いているかどうかも知らなかった。テレビでは「兼高かおる世界の旅」が大人気の中 、ケネディ大統領暗殺の翌年1964年は「東京オリンピック」、「海外渡航由化」と華々しいニュースの日々、時代だった。そうだこれからは航空会社の時代になる。この時代の先端を行く航空会社で働こうと夢を持った。それには英語が必要であった。アメリカ留学を思い立った。海外渡航自由化と言っても留学するには外務省試験合格が必須であった。旅費滞在費付きの留学試験は不合格、仕方なく私費留学試験を受け合格するが親の猛反対を受け、たった100ドルを懐にただ一人渡米する羽目になった。大阪空港のターミナルはまだ米軍から返還された「かまぼこ兵舎」を使用しており、コロナ騒動で自粛規制の空港ロビーのように閑散とした乗客も少ない時代だった。当時人気のあったNHKのドラマ「事件記者」に出ていた細身の人気俳優だった園井啓介も東京行き搭乗手続きをしていた。ハイジャックなどという恐ろしい言葉もなく、滑走路と見送り人の間には金網のフェンスがあるだけだった。大阪空港からは国際便はまだなく29座席、新幹線並みの時速300qのDC3で羽田へ向かった。
(続く)



 1968年のバイク世界一周(2)  大迫嘉昭  2020年5月29日(金) 10:50
同じ運賃ならホノルル、サンフランシスコを観光してロサンゼルスへ行こうと、羽田空港からはJLDC-8サンフランシスコ行きに乗った。当時はDiscount Ticket(格安航空券)などなかった。ロサンゼルスまで片道航空券(One way ticket約\148,000)であった。現在の価格で約¥150万と今では考えられないほど高価な航空運賃だった。羽田を飛び立って約八時間、コバルトブルーの海に囲まれた赤土と緑色の色鮮やかなオアフ島が視界に入ると、パイナップル畑やダイヤモンド・ヘッドをかすめるようにホノルル空港に着陸した。 乗客を飛行機からターミナルビルへ運ぶバス・サービスなどまだなかった。梅雨空の日本から着いたばかりの私は、雲一つない空に燦々と降り注ぐハワイの太陽が滑走路に照り返し、焼け付くような熱さを感じたが、雨季のじめじめした日本とは全く違ったさわやかな暑さだった。十月に東京オリンピック開催を控え、急速な経済発展中の日本。工場の煙突から吐き出される煤煙と忙しげに資材を運ぶトラックの排気ガスで、周りの景色がよどんで見えた日本の風景とは違い、紺碧の海と空の色彩が素晴らしく、空気のきれいな健康的なホノルルの風景に感動、何度も思い切り深呼吸しながら滑走路を歩きターミナルビルへ向かった。ターミナルビルは今とは比べ物にならないほど小さく、乗客も少なく閑散としていた。建物の中にはエアコンもなかったが、ビーチから吹き付ける心地よい風が、開けっ放しの大きな窓を吹き抜け寝不足の私を癒してくれた。白人の入国検査官に当時留学生に義務付けられていたI-20(入学許可書)、伝染病の結核を患っていないことを証明するA3サイズの胸のレントゲン写真、それにパスポートを提示すると、「Only $100?」と、パスポートに記載された外貨額(1964年、渡航自由化になった年外貨持ち出し額は、まず日本銀行で許可を得て、市中の銀行で両替する規定になっていた)と、私の顔を同時に見ながら言った。たった100ドルの所持金では、即、強制送還されるのではと一瞬、恐怖を感じた。「現金を持っていると盗られる危険があるから、あとで親が送金してくれますので・・・・・」と額に汗をかきながら、私は知っている限りの英語の単語を並べ、なんとか無事空港の外へ出た。ターミナルビルを出ると映画で観たことのあるポリネシア系美人のフラダンサーが、空港から出てくる乗客一人ひとりの首にレイかけていた。私にもかけようとしたが、情けないことに100ドルしか所持金のない私は料金を払うものと勘違いし、無意識に体をそらしレイを断った。それは歓迎のレイでタダだったのだが・・・・。しかし、初めて見る「異人」の彼女たちは「総天然色」映画から飛び出してきたような美人だった。空港からタクシーでホテルへ向かった。英語のできない私は、出発前神戸のアメリカ領事館で紹介されたホノルル動物園横にあるカプフル通りに面したWaikiki Grand Hotel(現在の「クイーン・カピオラニ・ホテル」に宿泊することに決めていた。空港からタクシーに乗った。運転手は安っぽいアロハシャツを着たよくしゃべる、愛想の良い中年白人であった。彼は戦後、進駐軍として神戸(現在の神戸市役所東、東遊園地に駐屯地があった)で勤務した経験があると言った。運転手の彼は日本と戦争した戦勝国の元米軍の兵士で、私は敗戦国日本の若造である。その敗戦国の若造が戦勝国のアメリカ人が運転するタクシーに客として乗っている。乗り心地は非常に悪く、その上彼の英語もほとんど理解できず、ヒ汗をかきながらの「Oh,I see,Oh yes,yes」の連続であった。空港からホテルまでのタクシー代はチップ込みで4ドル50セント、あれから56年経過した今は45ドルである。ホテル代は一泊10ドルだった。当時、日本ではホテルの数も少なく、ホテルに泊まる人は特別な人と限られ、宿泊するのは旅館が一般的であった。ホテルに泊まった経験のない私はベッドでさえ珍しく、寝転んでいる姿を自動シャッターで写真まで撮った。バスタブを使うのも初めてで、あれは肩までつかることもむつかしく、使用後はバスタブの周りに体を洗った垢が付き、上がる時、その垢を洗うものだと思っていた私はそれを洗い流すのに苦労した。それ以来、今でもバスタブは苦手である。ついでだから言わせてもらうと、欧米人は土足で家の中を歩く習慣がある。外の公衆便所に入った靴で自宅の部屋を歩き回る。米国ではコロナ感染死者が十万人を超した。これだけ言えば十分であろう。ホテルのレストラン行き、カウンターに座り目の前にある英語メニューを見るがさっぱりわからないので、日系のウエイトレスに任せるとレタス、チーズ、トマトなどバラバラに盛った皿と餅のような形をしたパンを持ってきた。どのようにして食べるのかもわからず、ウエイトレスに教えてもらい、そのパンにすべてを挟みケチャップをかけて食べた。何のことはない。今なら幼稚園児でも知っているハンバーガーだった。ハワイといえども当時はまだ観光客も少なくホテルのロビーもガランとしていた。ウエイトレスが食器をかたづけに来たので、ついでに食事代、一ドル二十セントを払うと「ユー、チップ」と不愛想に催促した。私はチップの払い方もわからず、ポケットに手を突っ込み五セント,十セント、二十五セントなどの小銭をカウンター置くと、彼女はニコッとお世辞笑いしながら一番大きなコイン(二十五セント、¥90)を指で摘まみあげ、エプロンのポケットへポイッとほうり込んだ。日本ではで新聞一部¥10、週刊誌が¥30、三宮大阪間の電車賃¥30の時代であった。私の退職時の月給料は二万円、日割り計算すると約六百六十円だったので、昼食代とチップだけで日給の半分近くが吹き飛び、身の縮む思いがした。そこへ「日本の方?」と声をかけ私の隣に座ったのが有名な俳優フランキー堺であった。人気のあった喜劇映画「駅前音頭」を撮影するため森繁久彌、伴淳三郎と同じホテルに泊まっていた。食事の後ビーチへ出てみたが人も少なくすぐホテルへ引き返した。夜、ホテルで知り合いになったニューヨークへ行くという商社マンと近くのアラモアナ・ホテルへフラダンスショーを小瓶一本1ドル払い見に行った。背広姿の私たち二人は着飾った白人男女に囲まれその場を壊しているようであった。(続く)

 social distanceが短くできるface shieldをクリア ファイルで代用できる  旧職員 太田徹次  2020年5月30日(土) 16:55
 自粛生活が明けて皆さんがお逢いする時に感激のあまり接触しないようにまたface shield(FS)をマスクの上につけた方が良いように思います。FSの代用としてクリアファイルをマスクの上から頭から被せるようにすれば、FSの代用として使えます。少し不細工ですが、感染しないうつさない事を大原則にすれば致し方ありません。大迫さんが渡米した時に100ドルを手にして1人で伊丹空港から羽田周りで渡米された様子を話されていますが、当時のドル円レイトは1ドル=360円の時代で、私も同じ360円時代に渡米しています。ポケットにはコインを入れて何かあった時には、コインを道に撒くようすれば、音が鳴り町のチンピラから逃げられれると言われて教えられたようにして町へ行きました。カピオラニ・ホテルはワイキキビーチ前にある高級ホテルだったように思います。ホテルは命預けますので費用が掛かっても良いホテルにしないといけないのは、海外旅行では常識です。スーパーへタクシーで買い物に行き、how much do I oue youとドライバーに尋ねて料金を渡した事がありましたね。私の場合は男のドライバーでした。

 人間を何ですが判断しますか?社会的地位や見えない人格か経験値か経済力か  旧職員 太田徹次  2020年5月31日(日) 10:47
 NHKの大河(麒麟が来る)で印象的な言葉が有ります。本木さんが演じた信玄公が(言葉は刃物ぞ)というセリフです。米国で大迫さんは長く生活されておられたので教えて頂きたいのですが、表現として日本語の謙譲語や丁寧語等々の表現は在りますか?
1年以上の長い海外生活を送った人に聞くと、どういう表現や言葉を使えかで人のレベルの高さが分かると言います。言語分析又は会話分析に関係する分野です。「諺に朱に交われば赤くなる」と言われますが、クラスでも出来る集団に属すれば自分の成績は上がって行くという現象が有ります。もちろん本人の努力が無ければそうならないと思います。誰しも長所、短所は有ります。自分には無いものを認めるかどうかが有りますが、国家試験で取得したIT関係の資格は今の時代重宝さています。
おおざっぱに言えば、「昭和の時代」はアナログ(不連続)、
機械化で「平成の時代」はデジタル(連続)、ITの時代で、
「令和の時代」はAI、創造力の時代だと思います。
総理や財務大臣の発言から創造するにコロナの次は大増税が有るかとも思います。悲しいかな人の評価を社会的地位や学歴から判断してしまう事から、次の人物評価指標を自分なりに見出だしたいと思います。

 1968年のバイク世界一周(3)  大迫嘉昭  2020年5月31日(日) 12:06
ホノルルからサンフランシスコへ

ホノルル発サンフランシスコ行き出発は夜中だった。観光する金もなく、ホテルの玄関先で日系人のタクシー運転手相手に雑談したりして出発まで時間をつぶした。彼は海外旅行自由化になり、これからは日本人観光客が増えると彼は喜んでいた。当時JTBのハワイ9日間旅行は35,6万円と日本人の年収に匹敵する旅費だった。サンフランシスコ空港に着くと日本人社員に聞きダウンタウンのYMCAへバスで向かった。7月4日、真夏だというのに寒く部屋の暖房はONになっていた。部屋に入ってしばらくするとドアをノックする音がしたので、ドアを開けると、隣の部屋に泊まっているという三十歳ぐらいの白人が自己紹介し、私の部屋へ入ってきた。妙になれなれしい態度だったので、私は気持ち悪く彼から離れようとすると、引っ付くように私に近づいてきた。次の瞬間は私は思い切り彼に体当たりすると彼は部屋のドアに体から当たり、ドアは大きな音を立てた。彼は立ち上がり何ごともなかったように私の部屋から出て行った。部屋の外に出ると多くのヒッピーらしき風采の泊り客が私の方に視線を向けていた。どういうわけか西城秀樹の「YMCA」や「Hotel California」を聴く度にサンフランシスコのあのYMCAを思い出す。あの頃、24歳だったが、私はあの種の男が、この世に寄生していることさえも知らなかった。だが、部屋に備え付けのラジオからトニー・ベネットの「I left my heat in SF」が流れ、窓の外にゴールデン・ゲート・ブリッジが望めた風景は今も鮮やかに覚えている。

余談
サンフランシスコのケーブルカーの運賃
1964年10Cent(\36)
2020年$7(約\750)

翌日、目的地のロサンゼルスへ飛んだ。ここでも日本航空のカウンターに行きバスで日本人町への行方を教えてもらった。海外旅行のガイドブックもiPhoneもない時代、日本人留学生は日本人町で「皿洗い」をして授業料や生活費を稼ぐと何かで読んだか聴いたことがあった。英語の話せない私は日本人町に行けば簡単に「皿洗い」のバイトは見つかるものと思い込んでいた。日本人町のバス停で降りベンチに座っている日系人の老婆に聞き、日系人の経営する「パシフィック(太平洋)ホテル」へ向かった。そのホテルはいたるところペンキの禿げた薄茶色の三階建てで、アメリカ映画によく出てくる建物の外には時代物の赤さびた鉄製の避難用階段が備え付けてあった。薄暗く狭いホテルのロビーを掃除していた六十代の男性が、私の背広姿から日本から来た者とわかったようで、
「ワンナイト(一泊)四エン、ウィーキ(週)で二十エンじゃ」と、言った。彼はこのホテルのオーナーであった。突然、彼がエン(円)とかウィーク(週)と言ったので呆気にとられた。すでに七十ドルほどしか手持ちがなく、心細くひとまず一泊だけすることにした。
部屋はスプリングの利かない年代物のベッド、ポタポタと水が漏れ落ちるシャワー、長年の使用で薄黄色に変色した便器、それにバケツのような古いゴミ箱が備え付けてあるだけの部屋だった。アメリカ人、いわゆる白人が宿泊するなど想像もできないほど汚いホテルで、私のような「発展途上国」からの客が泊まる「木賃宿」と呼ぶに相応しいホテルだった。ホテルの周りには東京銀行、住友銀行、「大阪屋」、「宮武写真館」「東京会館」等、英語と日本語の看板を掲げた店が軒を並べ、すでに日本ですでに目にかかれない、大正時代から昭和初期にかけてのセピア色の懐かしい風景だった。日本では一等地に店舗を構えている東京銀行や住友銀行が、時代に取り残された日本人町の古びた建物で営業しているのを見たとき、敗戦国日本を象徴しているようで寂しさを感じた。ホテルの入り口でボロの衣類まとった白人のバアさんが小銭をくれと空き缶を差し出してきたとき、世界一豊かな国と信じて疑わなかったアメリカにも物乞いがいるのかと強烈なショックを受けた。日本人町は1,2分で周れる広さで、レストランも数件しかなく、すでに夏休みが始まっていたのでどこのレストランも皿洗いの学生を雇っており、私など雇ってくれる店はなかった。この現実を知ったとき、えらいことや!と狼狽えた。続く

 グローバル化は価値観の多様性と変化の激しさを生むので、走りながら演繹と帰納分析が必要になるか?  旧職員 太田徹次  2020年5月31日(日) 16:31
 初めに断っておきますが、大迫さんをリツイートしているのではありません。大迫さんは米大陸でのご自身の実体験を夢校の後輩達に語られているように思います。やはり、実体験はそれが出来る若さと体力と新しいものに適応するための知力、やる気が重要だと思います。真実の所は分かりませんが、回想しながら演繹(未来予測)と帰納(原理/法則追及)分析を同時にされているのではないかと想像します。2020年のコロナ禍から商売や仕事、授業等でリモートで行うことを経験してWithコロナの時代は1回で伝える、理解する印象深い短い言葉、一瞬で理解する理解する理解力、想像力、創造力を培っておきたいと思います。合わせて令和の時代はAI/創造力がキーワードです。理解力の遅い人、1を聞いて10が想像できない人には厳しい時代になるでしょうか?。そして密接しないと難しい営業職や広報職は無くなるかもしれません。私自身の創造力欠如からWithコロナの時代の仕事が想像できません事と経験した職業が少ないので思いつかなくて申し訳ありません。三密を避けた職場や営業の無い商売で少数採用で適材人材が有利になるでしょうか?。今こそ夢校は英知を結集すれば元県Uの地位を取り戻すチャンスになるかも知れません。将来進学にも就職にも有利な国家資格を在学中に1つは取得できる指導体制作りが夢校人気上昇の入り口戦略と考えます。