1968年のバイク世界一周(2) 大迫嘉昭 2020年5月29日(金) 10:50 |
同じ運賃ならホノルル、サンフランシスコを観光してロサンゼルスへ行こうと、羽田空港からはJLDC-8サンフランシスコ行きに乗った。当時はDiscount Ticket(格安航空券)などなかった。ロサンゼルスまで片道航空券(One way ticket約\148,000)であった。現在の価格で約¥150万と今では考えられないほど高価な航空運賃だった。羽田を飛び立って約八時間、コバルトブルーの海に囲まれた赤土と緑色の色鮮やかなオアフ島が視界に入ると、パイナップル畑やダイヤモンド・ヘッドをかすめるようにホノルル空港に着陸した。 乗客を飛行機からターミナルビルへ運ぶバス・サービスなどまだなかった。梅雨空の日本から着いたばかりの私は、雲一つない空に燦々と降り注ぐハワイの太陽が滑走路に照り返し、焼け付くような熱さを感じたが、雨季のじめじめした日本とは全く違ったさわやかな暑さだった。十月に東京オリンピック開催を控え、急速な経済発展中の日本。工場の煙突から吐き出される煤煙と忙しげに資材を運ぶトラックの排気ガスで、周りの景色がよどんで見えた日本の風景とは違い、紺碧の海と空の色彩が素晴らしく、空気のきれいな健康的なホノルルの風景に感動、何度も思い切り深呼吸しながら滑走路を歩きターミナルビルへ向かった。ターミナルビルは今とは比べ物にならないほど小さく、乗客も少なく閑散としていた。建物の中にはエアコンもなかったが、ビーチから吹き付ける心地よい風が、開けっ放しの大きな窓を吹き抜け寝不足の私を癒してくれた。白人の入国検査官に当時留学生に義務付けられていたI-20(入学許可書)、伝染病の結核を患っていないことを証明するA3サイズの胸のレントゲン写真、それにパスポートを提示すると、「Only $100?」と、パスポートに記載された外貨額(1964年、渡航自由化になった年外貨持ち出し額は、まず日本銀行で許可を得て、市中の銀行で両替する規定になっていた)と、私の顔を同時に見ながら言った。たった100ドルの所持金では、即、強制送還されるのではと一瞬、恐怖を感じた。「現金を持っていると盗られる危険があるから、あとで親が送金してくれますので・・・・・」と額に汗をかきながら、私は知っている限りの英語の単語を並べ、なんとか無事空港の外へ出た。ターミナルビルを出ると映画で観たことのあるポリネシア系美人のフラダンサーが、空港から出てくる乗客一人ひとりの首にレイかけていた。私にもかけようとしたが、情けないことに100ドルしか所持金のない私は料金を払うものと勘違いし、無意識に体をそらしレイを断った。それは歓迎のレイでタダだったのだが・・・・。しかし、初めて見る「異人」の彼女たちは「総天然色」映画から飛び出してきたような美人だった。空港からタクシーでホテルへ向かった。英語のできない私は、出発前神戸のアメリカ領事館で紹介されたホノルル動物園横にあるカプフル通りに面したWaikiki Grand Hotel(現在の「クイーン・カピオラニ・ホテル」に宿泊することに決めていた。空港からタクシーに乗った。運転手は安っぽいアロハシャツを着たよくしゃべる、愛想の良い中年白人であった。彼は戦後、進駐軍として神戸(現在の神戸市役所東、東遊園地に駐屯地があった)で勤務した経験があると言った。運転手の彼は日本と戦争した戦勝国の元米軍の兵士で、私は敗戦国日本の若造である。その敗戦国の若造が戦勝国のアメリカ人が運転するタクシーに客として乗っている。乗り心地は非常に悪く、その上彼の英語もほとんど理解できず、ヒ汗をかきながらの「Oh,I see,Oh yes,yes」の連続であった。空港からホテルまでのタクシー代はチップ込みで4ドル50セント、あれから56年経過した今は45ドルである。ホテル代は一泊10ドルだった。当時、日本ではホテルの数も少なく、ホテルに泊まる人は特別な人と限られ、宿泊するのは旅館が一般的であった。ホテルに泊まった経験のない私はベッドでさえ珍しく、寝転んでいる姿を自動シャッターで写真まで撮った。バスタブを使うのも初めてで、あれは肩までつかることもむつかしく、使用後はバスタブの周りに体を洗った垢が付き、上がる時、その垢を洗うものだと思っていた私はそれを洗い流すのに苦労した。それ以来、今でもバスタブは苦手である。ついでだから言わせてもらうと、欧米人は土足で家の中を歩く習慣がある。外の公衆便所に入った靴で自宅の部屋を歩き回る。米国ではコロナ感染死者が十万人を超した。これだけ言えば十分であろう。ホテルのレストラン行き、カウンターに座り目の前にある英語メニューを見るがさっぱりわからないので、日系のウエイトレスに任せるとレタス、チーズ、トマトなどバラバラに盛った皿と餅のような形をしたパンを持ってきた。どのようにして食べるのかもわからず、ウエイトレスに教えてもらい、そのパンにすべてを挟みケチャップをかけて食べた。何のことはない。今なら幼稚園児でも知っているハンバーガーだった。ハワイといえども当時はまだ観光客も少なくホテルのロビーもガランとしていた。ウエイトレスが食器をかたづけに来たので、ついでに食事代、一ドル二十セントを払うと「ユー、チップ」と不愛想に催促した。私はチップの払い方もわからず、ポケットに手を突っ込み五セント,十セント、二十五セントなどの小銭をカウンター置くと、彼女はニコッとお世辞笑いしながら一番大きなコイン(二十五セント、¥90)を指で摘まみあげ、エプロンのポケットへポイッとほうり込んだ。日本ではで新聞一部¥10、週刊誌が¥30、三宮大阪間の電車賃¥30の時代であった。私の退職時の月給料は二万円、日割り計算すると約六百六十円だったので、昼食代とチップだけで日給の半分近くが吹き飛び、身の縮む思いがした。そこへ「日本の方?」と声をかけ私の隣に座ったのが有名な俳優フランキー堺であった。人気のあった喜劇映画「駅前音頭」を撮影するため森繁久彌、伴淳三郎と同じホテルに泊まっていた。食事の後ビーチへ出てみたが人も少なくすぐホテルへ引き返した。夜、ホテルで知り合いになったニューヨークへ行くという商社マンと近くのアラモアナ・ホテルへフラダンスショーを小瓶一本1ドル払い見に行った。背広姿の私たち二人は着飾った白人男女に囲まれその場を壊しているようであった。(続く)
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